任せたぞー!
今日は珍しく一つのテーマに想いを馳せた夜だった。
結婚したことをきっかけに、私は週1度都内のユダヤ教会に足を運ぶようになった。
(ときどきさぼるけど)行き始めてもう4ヵ月目になる。初日に行ったときは、
その場の空気があまりにも新し過ぎて強烈なエネルギーを受けたのを覚えている。
部屋一杯に並べられた椅子にとりあえず腰掛けたものの、時間が経つにつれて目の前
の壁がぐにゃぐにゃと揺れ始めそうになった。頭がぐらぐらと踊り出しそうになった。
「ヤバイッ」と思い、出口の近くに座り直そうかと思ったほど。それが今じゃ出口から
一番遠い、最前列の席に私と旦那は毎週座っているんだからなー。とはいえ、
ときどき「なんで自分はここに居るのか」とつかみきれずにただ座っていることもある。
そう言えば、ニューヨークの42番街周辺では頭に丸く小さな帽子を被った男性を
しょっちゅう見かけたけどまさかその4年後、彼らと肩を並べて聖歌を歌うことになるなんて…
ラララ~ラララ~ 人生は本当に「先が読めない」の一言に尽きる。
私は「祈り」という行いをとても聖なる、美しいものだと漠然と感じてきた。
でも祈る、なんて日曜教会のチャペルの中だけの話だと思っていた。大人になって、
特にアジアを旅したとき、それは教会の中だけのことじゃなかったんだと初めて体感した。
宗教の前に人々の祈りがあり、祈りの前に1人1人の想いがあり、「生きる」姿があり、
それが宗教という枠で形づくられていたのか、と。
ひいじいさんの代からキリスト教を信仰し、クリスチャン系の幼稚園、高校、大学に
通ったという自分自身の過去も以前よりはっきりしたものになった気がする。
でもそんな私がなぜ先にユダヤ教を勉強するに至ったか-。
簡単に言えばいつか私が母親になったとき、子供がユダヤ人として認められるためには
母親がユダヤ人でなければいけないから。それは近い将来必ず私自身に問いかけられる
テーマであり、とっても現実的な話の一つ。
じゃあ、なぜ子供がユダヤ人でなければいけないのか-。
表面的な理由を一つ挙げればユダヤ人でなければイスラエルで市民としての権利が十分に
与えられない(らしい)。
一方で旦那の家系が何十世代前から守ってきた想いや伝統を自分は知りたいのか、
知りたくないのか、その方が実は重みがあり、子供というよりも、旦那と一緒にというよりも
結局は自分自身の問題なんだということに改めて気付いてきた…。
知らなくてもいいやというのは簡単だけど、それはやっぱり4000年の間継承されてきたという歴史の
重みを背負わない者の意見であることは否めない。私の子供はやはり彼らの子孫に違いはないんだと思うと、
「子供がユダヤ人じゃなくてもいいじゃん」という今までの意見が非常にテキトーな
判断によるものだったことも否定できない。と同時に、知れば知るほど未知の深みがそこには
あってやっぱり子供に任せよう、とも思ってしまう 笑。
とりあえず、私がユダヤ教に改宗するかどうかはまだ決断できない。
まだ決めるタイミングではないと思う。ぶっちゃけ、将来の私に任せるしかない 笑。
「将来のあなたに任せる分、私は今日の自分を全うします、できる限り。
そしたらあなたはきっと一番良い選択ができるはずです がんばってください 笑」
そう、もう委ねるしかない。
将来の自分がなるべくよりよい時を過ごせるように、今日与えられた縁は積極的に
手に取ってみよう。だから続けて行ってみよう。
そう決めたら、週1回の「あやふや」が少し明確になった。
結婚したことをきっかけに、私は週1度都内のユダヤ教会に足を運ぶようになった。
(ときどきさぼるけど)行き始めてもう4ヵ月目になる。初日に行ったときは、
その場の空気があまりにも新し過ぎて強烈なエネルギーを受けたのを覚えている。
部屋一杯に並べられた椅子にとりあえず腰掛けたものの、時間が経つにつれて目の前
の壁がぐにゃぐにゃと揺れ始めそうになった。頭がぐらぐらと踊り出しそうになった。
「ヤバイッ」と思い、出口の近くに座り直そうかと思ったほど。それが今じゃ出口から
一番遠い、最前列の席に私と旦那は毎週座っているんだからなー。とはいえ、
ときどき「なんで自分はここに居るのか」とつかみきれずにただ座っていることもある。
そう言えば、ニューヨークの42番街周辺では頭に丸く小さな帽子を被った男性を
しょっちゅう見かけたけどまさかその4年後、彼らと肩を並べて聖歌を歌うことになるなんて…
ラララ~ラララ~ 人生は本当に「先が読めない」の一言に尽きる。
私は「祈り」という行いをとても聖なる、美しいものだと漠然と感じてきた。
でも祈る、なんて日曜教会のチャペルの中だけの話だと思っていた。大人になって、
特にアジアを旅したとき、それは教会の中だけのことじゃなかったんだと初めて体感した。
宗教の前に人々の祈りがあり、祈りの前に1人1人の想いがあり、「生きる」姿があり、
それが宗教という枠で形づくられていたのか、と。
ひいじいさんの代からキリスト教を信仰し、クリスチャン系の幼稚園、高校、大学に
通ったという自分自身の過去も以前よりはっきりしたものになった気がする。
でもそんな私がなぜ先にユダヤ教を勉強するに至ったか-。
簡単に言えばいつか私が母親になったとき、子供がユダヤ人として認められるためには
母親がユダヤ人でなければいけないから。それは近い将来必ず私自身に問いかけられる
テーマであり、とっても現実的な話の一つ。
じゃあ、なぜ子供がユダヤ人でなければいけないのか-。
表面的な理由を一つ挙げればユダヤ人でなければイスラエルで市民としての権利が十分に
与えられない(らしい)。
一方で旦那の家系が何十世代前から守ってきた想いや伝統を自分は知りたいのか、
知りたくないのか、その方が実は重みがあり、子供というよりも、旦那と一緒にというよりも
結局は自分自身の問題なんだということに改めて気付いてきた…。
知らなくてもいいやというのは簡単だけど、それはやっぱり4000年の間継承されてきたという歴史の
重みを背負わない者の意見であることは否めない。私の子供はやはり彼らの子孫に違いはないんだと思うと、
「子供がユダヤ人じゃなくてもいいじゃん」という今までの意見が非常にテキトーな
判断によるものだったことも否定できない。と同時に、知れば知るほど未知の深みがそこには
あってやっぱり子供に任せよう、とも思ってしまう 笑。
とりあえず、私がユダヤ教に改宗するかどうかはまだ決断できない。
まだ決めるタイミングではないと思う。ぶっちゃけ、将来の私に任せるしかない 笑。
「将来のあなたに任せる分、私は今日の自分を全うします、できる限り。
そしたらあなたはきっと一番良い選択ができるはずです がんばってください 笑」
そう、もう委ねるしかない。
将来の自分がなるべくよりよい時を過ごせるように、今日与えられた縁は積極的に
手に取ってみよう。だから続けて行ってみよう。
そう決めたら、週1回の「あやふや」が少し明確になった。
by mgigi
| 2004-02-19 03:11